mitsukoの日記

ばあちゃんに会いたい

終活

今日、ごごなまをみて、財前さんの終活ノートなるものを拝見した。

 

祖母の介護をする身として、人の死を考えることが日常的にある。

 

孫のわたしももう三十手前、

 

両親の両親、つまり私の祖父母4人、それぞれまだ生きているが、終活は私の身にも影響が及ぶこととして見ている。

 

祖父母たちは、割と物を捨てずに取っておくので、物が溜まりがちで、家の中に物が滞ってしまう。使ってないものを捨てる選択は、祖父母の子たち、つまり、私の両親たちが主に担うであろうが、両親たちも、自分たちの子が離れて、子育てした中での生活した物たちと、今、日常生活で必要なものとでは、選別するのに迷ったり、躊躇したりする時間が出てくる。たくさんの物を捨てたり整頓するのは大変で、私たち孫が祖父母や両親、自分たちのおもちゃなどの選別の目となって片付けなければならないと思っている。

 

 

最近、父方の祖父母の実家を手放したわけだが、かなり物が溢れて、片付けるのに大変だった。

祖父は物好きで、買い付けては、売って歩く、という人だったが、時代の流れに逆らえず、骨董品は家に溢れかえっていた。

それも、手放す気は無いので、内緒で処分することになった。お金に換金しようとも、いくつかのサイトで鑑定してもらったが、価値なし、リサイクルショップでもほとんど値が付かない、というような風で。

 

祖母の介護を引き受けた私は、段差だらけの実家の庭先に、両親たちと一緒にマジックサンドを買って、石ころや草を取り除ききれいに整地し、玄関まで続くスロープを作った。両脇に煉瓦を敷き、お手製のスロープとなった。

 

私はこの家に住んでいたわけでは無い。祖父母は自分たちの介護のことなどこの家を建てた時には考えてはいなかったろうな、と思った。介護的な環境が整備されて来たのは、きっと、家が建った後のことなのかもしれない、見栄を張ってこんな家を建てたのかもしれない、とか、片付けしててぼやっと考えた。

 

 

私は、今日のテレビをきっかけに、もう一度、人生年表を書いてみた。

 

そして、終活ノートを作り始めた。

 

まだ半世紀も生きてない。

 

でも、いつかは必ずやってくる。早いかなと思うけど、実際、現実的に物事を考えるのには、早いということは無いなと思った。

 

終活ノートを作るにあたって、ネットで検索して、死ぬときにどんなことが、自分の身の回りに起こるのかについて、考えなければならなかった。

 

葬儀、お墓、介護の有無、延命の有無、財産相続、など。

 

考えると、具体的にどのくらいのお金がかかるかが見えてくる。

私の終わりに関わる人には負担はかけたく無い、だからこのくらいの金額は用意しておいた方がいいな、持ち物はなるべく少なくしておこう、とかいろいろ考えた。

 

人生の大きなイベントみたいなものって、仕事とか、結婚とか、出産とか、あるけど、終活もそのひとつだなぁ、と実感した。

 

f:id:mitsuko510:20200312181600j:image

私の年代の人たちの平均寿命は、104歳前後になるかもしれないそう。

年表は、B5のキャンパスノートに、一年二行で、7ページ分になった。2/7生きたところだった。残り人生5ページあるかもしれない。もしかしたら、明日死ぬかもしれないけど。

104歳だと、やっぱりその分お金もかかるなっと。